ネットバンク

アレックスが帰宅するとダイニングテーブルの真ん中に手紙が置かれていた。

手に取ると自分宛の封書で差出人は覚えのない女性の名前だった。

ビジネスレターではなく普通の封筒である。

窺うように妻の顔をさりげなく見てから開封せずにまた同じ位置に手紙を戻した。

妻のサラは読んでいる本に集中していて自分のことを見ていないし、手紙のことも気にはしていないようだ…

にもかかわらず、アレックスは今すぐ手紙を開封するのを躊躇った。

でも、いったい誰だろう?

アレックスは頭の中で差出人の名前を記憶の名簿から抽出しようと全神経をフル稼働して脳へアクセスしてみたが記憶のデータベースには全く存在しない名前だった。

だいぶ前にサラに内緒で犯した過ちの相手だろうか…?

アレックスはそのとき結婚しているにもかかわらず一度だけ名前も知らない女性とそういう風な時間を過ごしたことがある。

そういう風な時間…

噛み砕いて説明する必要もないと思う。大人なら分かるそういう風な時間のことである。

確かにその時のアレックスはどうかしていた。仕事で言い逃れのできない大きなミスを犯して会社内で立場が孤立していたし足の裏に出来た魚の目がとても痛くて悩みの種になっていた。

どちらかと言えばアレックスにとっては魚の目の方が深刻だった。

数日後に手術を受ける羽目になったのだからその深刻度は会社の孤立した立場よりも深いことを意味していた。(何はさておき健康上の問題は人生において最も大きい)

ふらっと息を抜こうと思った酒場にいた女性にふらっと人生の息抜きもお願いしてしまったのだと自分で自分に言い訳をしていた。

そうなんだ…息を抜かなければ…あの時の俺は…

魚の目のせいだと言っても誰も同情はしてくれないことくらいアレックスには重々分かっていた。

事実自体が問題なのだから、このことは口が裂けても言葉にしてはならないのである。

でも、あの時だけだし、第一彼女がどうして自分の名前や住所を知っているのだろう?

いま連絡をしてきて自分をどんな窮地に追い詰めようというのだ…

もう3年くらい前のことじゃないか…

いや、何年たっても罪は罪だ、分かってるよサラ…

「どうしたの?」

サラが急にアレックスに声をかけたものだから驚いて肩が上がり硬直してしまった。

不自然に作り笑いをして「何でもないよ」と返した。

サラはまた開いていた本に視線を戻した。

サラがアレックス宛に届いた手紙をテーブルに置いたのだから、手紙の存在は分かっているはずだ。なのにどうしてそのことを話題にしないのだろう…?

アレックスの妄想は短時間で悪い方へと広がっていき、根拠もなくビビっていた。

サラは読んでいた本を閉じると風呂に入ると言って部屋を出ていった。

アレックスはすぐに手紙を手に取って速やかに開封した。

普段、こんなに心臓が拍動することがあるだろうか…俺はいったい何を畏れているのだ…

この手紙が思わぬ事態を巻き起こしたとしたら、サラにその事態をどう説明すればいいのだろう。

離婚という文字が頭をかすめた。

恐る恐る便箋を取り出して広げてみると整った女性の字が並んでいて、読む前に最下部に書かれた口座番号が目に入った。

金絡みか…

俺を脅迫しようというのだろうか…?

アレックスは息をのんだ。

頭からゆっくり読むと何てことはない、契約している駐車場賃貸料の振込先が変わるという内容だった。

差出人の女性は最近ご主人を亡くされ、今後自分の口座に駐車場の賃貸料を振り込む手配をしてくれということだった。

アレックスは肩の力が抜け身体中の穴から緊張の空気が抜けてくような気分になった。

大きく息を吐いた後、ついでに放屁した。

風呂から上がってバスタオルで髪を拭きながら戻ってきたサラに晴々とした笑顔で「駐車場の振込先が変わるんだって…」とアレックスは妙に明るく言った。

「そう…」とサラは興味がなさそうに応えてから、アレックスをもう一度見て「何でにやにやしているの?」と言った。

アレックスは「いや、何でもない」と言った瞬間、再び放屁した。

これはあくまでもアレックスの話で私とは全く関係がないが、偶然私も今月から駐車場の賃貸料を振り込む口座が変更になった。

利用していない銀行の口座なので、振込手数料がかかってしまう。

毎月手数料を払うのはもったいないので指定された銀行に新規で口座を作ることにした。

指定された口座がある銀行支店に出かけて新規口座の開設理由を銀行員の方に告げると小綺麗なブースに案内され対面式で接客対応していただきその場でタブレット入力による手続きを済ませキャッシュカードを発行してもらうことになった。

10年前なら後日書留で郵送という手順を踏まなければキャッシュカードは手にできなかったはずである。

あと驚いたことに現在銀行口座を開くのに印鑑は必要ないらしい…

時代は変わった。

私も歳を取った。

振込に利用するのに便利だということでネットバンクの手続きをして通帳も作らない。スマホにアプリをダウンロードして銀行に行かずして(もちろん待たされることもなく)スマホで振り込みができる。

もちろん手数料も無料である。

ネットバンクは初めてだが、何となく実態がない印象で必要性も感じなかったが振り込みに関してはかなり有益のように思える。

ATMの操作法が分からないお年寄りをたまに見かけることがあったけど、自分が現時点でネット時代についていけていないことを何となく突き付けられたような気がする。

アレックスがネットバンクを利用しているかどうか私は知らない。

もちろん、その後にそういう風な時間を過ごしたかどうかなんて…

どうでもいいことだ。