正しいクレームの処理方法

正しいクレームの処理方法

不意のアクシデントは感情を高揚させます。

 

感情というものは自分の内部から生じるにもかかわらず、なかなか手ごわい異物のようなものだ。

 

先日、通勤途中で接触事故に遭ってしまいました。

 

私はいつものように原付を走らせて信号機が最小限のルートを選んで細い裏道に入った。

 

前に一台白い車が(この道は抜け道だから車がすれ違えない道幅だけど朝の混雑を避け通り抜けするドライバーは多い)停車して、私は左後方にぴたりと着いた。

 

なぜ止まっているのだろう…見ると前から別の車が…道を譲る気なのか…と思った瞬間私の前の車がバックしてきた。

 

私は焦って原付を下げようとしたが、間に合わず、クラクションを鳴らす気転も利かず接触してしまいました。

 

慌てて気が付いたドライバーが車を止めて降りてきた。

 

女性だった。

 

私は少し憤慨して「見てなかったね…」とひとこと。

 

彼女はすぐに非を認め、どうしようという感じで動転している。

 

原付を支えようとして私の手首や足も少々負荷がかかってしまい(実際数日違和感が残った)結局支えきれず転倒した原付はその衝撃でマフラーカバーが破損している。

 

女性は近所に住む主婦で、すぐに携帯でご主人を呼んだ。

 

それから少しの間、この事故をどう処理するのかという話し合いがなされて(破損部分を修理してその実費だけ負担をお願いすることになった)後で連絡するために電話番号を聞いてから私は再び原付を走らせてその場を後にした。

 

こういうアクシデントが起こっとときに、感情が優先されると問題がこじれてしまうのでしょうか…個人的には事を荒立てるというのは性に合わない私は事故の原因を声をあげて責め立てることがなかったし、当然相手も自分に非があると思っているから穏やかに事を処理したいはずだったように思えます。

 

実は私も距離を詰め過ぎて彼女の死角に位置していたのは反省すべき点であると後から思った。

 

ある意味一方的ではない事故のような気がしないでもないということでしょうか…

 

しかしながらこの時に、もしも相手が私に車間距離を詰め過ぎだとかクラクションで知らせるべきではないかと私を責めたらおそらく私も自己弁護したであろうし良くない感情に支配されていたに違いありません。

 

それとは別に、私の感情を表に出せない性分も相手にとっても良かったのではないかと思います。

 

もちろん私にとってもこのご夫婦はとても穏やかな人たちで悪い感情は全く持たなかった。それでも事故の直後は感情が高ぶっていたことは事実であり間違った感情のやり取り如何では一触即発になる可能性が十分にあるような気がしました。

 

後日(ちょうど雨が降っていた日)、原付の破損部分の修理が完了し修理費をいただきにご夫婦にお会いした際に、修理費用以上の金額を封筒に包んで私に手渡し、菓子折りと商品券の入った紙袋まで私にくれるのである。

 

こういった場合、私は金額が多すぎると返すことはしないし、紙袋もありがたくいただく性分である。(返したりする方が無礼だと考える質だともいえる)

 

ご夫婦の言葉にしない想いというものを私も無言でありがたく受け取りこの事故の処理は終わった。

 

先日読んだ本に感情の取り扱い方のヒントになるようなことが書かれていた。

 

 

 

クレームとは怒りの感情を含んだ嫌な響きがある。

 

我慢できなかった怒りの感情とその感情をクレームとして表現しようとする人と対峙する際の処理の仕方…

 

仕事上こういった問題に対処される方には是非読んでいただきたいと思いますが、そもそも理不尽な空気が満ちたクレームには断固として立ち向かわなければなりません。

 

そもそも怒りの感情とはどうして生じるのでしょうか…?

 

そのことに触れている個所を少し抜粋してみると、怒りの原因というのは概ね3つに分類できるのだそうです。

 

ひとつめ、プライドを傷つけられた場合。

ふたつめ、想定外の出来事が起きた場合。

みっつめ、役割期待が裏切られた場合。

 

ひとつめは理解しやすいと思います。

 

ふたつめは例えば遅刻しそうになって急いで駅に着いたら人身事故で電車が止まっていたなどといったケース、イラっとします。どうして想定外の出来事は怒りの感情を生みやすいのでしょうか?

 

人は少し先のことを考えながら行動を決めたりするため、その未来の計画が台無しになってしまうからだということです。大した先のことでもないのだから気持ちを切り替えれば済むのでしょうけど…

 

みっつめが少し分かりにくいでしょうか…役割期待というのは人に対して漠然と「こういった立場の人はこうするべきなのではないか」と勝手に期待をしているのだということだそうです。

 

言われてみれば確かにそうです。

 

私たちは無意識にどんな人に対しても何かを期待し要求しているように感じます。夫はこうあるべき、妻はこういう態度であらねばならぬ、子供を連れた人の立ち居振る舞いはこうでなければならない、サービスを受ける場合の期待はかなり高いものですがその役割期待が大きい(サービスを受けるのだから大きくて当たり前と誰もが当然だと思うでしょう)と言えます。

 

そういった人に対する役割期待が裏切られたら…確かに怒りの感情がむくむくと沸き起こってきそうです。

 

考えてみたら怒りの原因に成り得るものって自分の中に勝手に作り上げている基準みたいなものにそぐわない場合に起こるのだと改めて感じます。

 

クレームが身勝手な印象(そうでない場合ももちろんあります)を拭えないのはこういった背景があるからなのかもしれません。

 

こういう怒りの原因を探ることもクレーム処理には有効に働くのだということです。

 

なぜ私がこの本を読もうと思ったのか…?

 

その話はまた今度、機会があったら。

 

この世界から怒りの感情が消えて平和な地球になることを誰もが望んでいるはずなのに、いつまでたっても争い(戦争から兄弟げんかまで)は絶えません。

 

自分サイドの怒りの感情によって生じるクレームを受けた際に生じるどうにもならないやり場のない感情は一体どこにクレームを言えばいいのか…

 

考えれば考えるほど感情の取り扱い方は難しいと思うのです。