これはお客様から聞いたエピソード。
便宜上、ここでは彼女の名を仮にジャニスと呼ぼう。
ジャニスはもう何年も足を運んでくれている人で、私にとってとても大切な女性だ。
世間では場合によっては高齢と言われるかもしれない年齢で、人生のパートナーは数年前に鬼籍に入っている。なので、ジャニスは独り暮らしである。
年齢とともに人は身体のどこかにちょっとした軋みを感じたり、いろんな個所に故障を抱えるものだが、彼女の場合ほぼ健康体を維持している。私の施術だけではなく本人も健康管理にはかなり神経を使っているし、ちょっとした違和感を放っておかずすぐにメディカルチャックを受けることを心掛けているようだ。
それでも、やはり年齢には勝てない面もあるにはある。
ジャニスはよく私にこう言う。
「ここに来られなくなったらもう終わりかも…」
そう言いながらも、ちゃんと約束した日時に顔を見せてくれるのがジャニスだ。
だからジャニスは長生きするに違いない。
ジャニスはだいたい夜の10時ぐらいに就寝し、寝つきもよく眠りも深い。ただ、まだ夜が明けきらない朝方の決まった時間に目が覚めてしまうのはこの寒い時期ちょっと悩みではある。ただ目が覚めるのではなく決まって尿意を催しているからだ…
尿意があるということは、冷え切ったトイレに行くために暖かい布団から出なければならないということなので、この時期の朝方の目覚めは思った以上に辛いものだと私も思う。
私なら3時間くらいは我慢するだろう…
その日もジャニスは朝の4時20分に目を覚ました。カーテンの外はまだ真っ暗だったけど、尿意を無視して再び眠りにつくことが困難なためいつものように暖かい布団から出て寒いトイレに向わなければならないうんざりした気分で軽くため息をついた。
トイレに入って用を足しているときにその事件は起こった。
彼女は独り暮らしなのでトイレに入る時に扉を開いたまま用を済ませることが習慣になっていた。その時も開いた扉から見える部屋の床を何かがさっと動いたのを見逃さなかった。
とても静かでまだ夜が明けきらない時間にその動きのある情景はジャニスにとってちょっとした衝撃だった。
ネズミだ…
用を済ませたジャニスはさっさとトイレを出て恐る恐るネズミが走った部屋に入ってみたがもうどこかに姿を隠してしまったようで、ネズミはきっと何か食べ物を漁っていたに違いない。人の気配がしたので慌てて逃げたのだろう。
案の定、齧られたサツマイモが転がっていた。
それからはもう寝られなかった。
夜が明けてから、押し入れの中にしまってあった昔使ったことがあるネズミを捕獲するためのトラップ装置を引っ張り出した。小さなケージハウス型のもので中にネズミをおびき寄せる餌を針金に吊るしターゲットが入って餌に食いつくとケージの扉が閉まるという古いタイプの罠だ。
新聞紙を広げた上に、その装置を設置しサツマイモを吊るしてトラップを仕掛けた。
その日のうちにトラップにかかったネズミがケージの中にいた。
下に敷いた新聞紙がめくれあがってその装置を覆い隠すようにかぶさっていたけどジャニスにはネズミが捕獲できていることがその気配ではっきりと分かった。
あえてそのケージのなかを見ないように新聞紙で包んでから、さてこれをどう処理しようかと頭を抱えた。本当は駆除=殺した方がいいのだろう…
でも、ジャニスにはどうしても自分の手をかけて生き物を殺すことが出来なかった。たとえ、恐ろしい伝染病を媒介するかもしれないネズミであっても…
ジャニスは新聞紙でくるんだネズミを捕獲したケージを自転車のかごに積んで家を出た。それをどうするかはまだはっきりと決めていなかったが、たぶんどこかに放してしまうのが自分に出来る最善の方法だと感じていた。
私でもきっとそうするだろう。
でも、意外と人目というのはどこにでもあるものだと感じた。かなり自転車を走らせたが前かごで確かに息をしている生きたネズミを解放する場所がなかなか見つからない。
30分以上自転車を走らせ見たこともないような風景のなか、いろんな想いがジャニスの感情を不安にした。身体を動かしているので少し汗をかいていることも全く気にならなかった。
それから間もなく、見通しのいい開けた畑のある場所に出た。ここなら住宅もないし人の迷惑にならずに済む…よし、ここで解放しよう。そう決めて自転車を止め前かごからケージを下してゆっくりとその扉を開けた。
その瞬間、全速力でネズミは地を這い畑の中に姿を消した。
空になったケージには吊るしてあったサツマイモが無くなっていた。
ジャニスは心底ほっとした。
この話を聞いて、私はますますジャニスが好きになった。
「そのネズミはすごく得をしましたね…命拾いをしたし、サツマイモも食べられたし…」
ジャニスは笑った。
「ネコを飼うといいかもしれませんね」
でも、最近のネコはネズミを捕らないというし…
そう言ってからまたジャニスは笑った。